愛犬と京都、初夏の陽気に誘われて、蹴上インクラインを散歩する。

【愛犬とおでかけ】初夏のような日差しを浴びて、京都近代化の礎となった蹴上インクラインをゆく。

ねじりまんぽ

蹴上(けあげ)インクラインは、京都市左京区にあった琵琶湖疏水による船運ルートの一区画をなす傾斜鉄道であり、現在は国の史跡として整備され、見事な桜並木が有名な観光スポットとなっています。
今回はその蹴上インクラインを、観光客でごった返す桜の時期ではなく、新緑がまぶしい季節に訪れてみました(撮影日2020年6月7日)。この頃は観光客もまばらで、ゆっくりと散策できましたよ。
なお、上の写真は、蹴上インクラインの下を通り、南禅寺に向かう歩行者用のトンネルで「ねじりまんぽ」と呼ばれています。渦を巻くような形で螺旋状にレンガが積まれているのは、上部のインクラインを行き交う船を乗せた台車の重さに耐えるようにするためとのことです。「まんぽ」とはトンネルを意味する古い言葉で、出入口には当時の京都府知事北垣国道による「雄観奇想(ゆうかんきそう-優れた眺めと思いもよらない考え)」との扁額が掲げられています。

インクライン

インクライン1
インクライン2
インクライン3

琵琶湖疏水は、琵琶湖の湖水を西隣の京都市へ流すため、明治時代に建設された水路であり、国の史跡や土木学会選奨土木遺産にも指定されています。
かつて京都市は、幕末の混乱で市中の多くが焼失し、また明治維新と東京奠都に伴う人口減少などのため産業も衰退しました。これに危機感を持った第三代京都府知事の北垣国道は灌漑、上水道、水運、水車動力を得ることを目的として琵琶湖疎水を計画したのです。
水運のためには疎水を運河とし、京都と琵琶湖(大津)間に船を運行させる必要がありましたが、高低差のある場所は船はそのまま運行できないため、台車に船を乗せて移動させるインクライン方式が採用されました。現在、その線路跡は公園のように自由に行き来できるにようになっていて、わんこのお散歩コースにもなっています。

田辺朔郎博士像

田辺朔郎博士像1
田辺朔郎博士像2

琵琶湖疏水の設計・施工の総責任者として、この大事業を成功に導いた土木技術者・工学者である田辺朔郎博士の像が、インクラインに面した公園に設置されています。琵琶湖疏水は1890年に5年の歳月をかけて開通の日を迎えましたが、当時田辺朔郎はまだなんと28歳という若さ!銅像を見ても、その若々しい姿にちょっと驚きますね。

義経地蔵

義経地蔵

平安時代末期、鞍馬山を離れ、平家打倒のため奥州へ向かう源義経は、日ノ岡峠に差し掛かりました。行く手から馬に乗った平家の九人の一団とすれ違った際、その内の一人が誤って泥水を蹴り上げて義経の衣服を汚してしまうのですが、平家の威光を笠に着た一行はそれを謝ることなく通り過ぎたため、その無礼に義経は怒り、九人を斬り殺してしまいます。それら九人の菩提を弔うために村人たちが九体石仏を安置し、そのうちの一つがこのお地蔵さまと伝えられていて(異説あり)、インクラインの舟だまりの脇に安置されています。この地の蹴上という地名も、この出来事が由来とされているとのことです。

蹴上発電所

蹴上発電所

営業用としては日本最初の水力発電所である蹴上発電所は、琵琶湖疏水(第一疎水)が完成した翌年の1891年(明治24年)に運転を開始しました。この発電所の電力は、インクラインの動力源や1895年(明治28年)に開通した京都電気鉄道(後の京都市電)でも使われました。
実はこの発電所は、疎水工事の途中に渡米して世界初の水力発電所を視察した田辺朔郎によって、当初予定していた水車動力から水力発電に変更されたとのことで、この変更によって京都の産業近代化はより一層すすむこととなったのです。なお、現在も関西電力所有の発電所として発電を続けています。
京都の近代化に大いに貢献した琵琶湖疏水、そしてその一翼を担ったインクラインでしたが、昭和期に入ると、鉄道などの交通機関の発達により船運の利用は減少の一途をたどり、太平洋戦争後の1948年(昭和23年)11月に運行を休止し、その後1960年(昭和35年)に正式に廃止されました。
現在は、観光スポットのひとつとして当時の面影を残しつつ、多くの観光客や市民に愛されています。

 

蹴上インクライン(ねじりまんぽ):京都市東山区東小物座町
最寄駅:
地下鉄東西線 蹴上駅 徒歩すぐ

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